鍛冶屋から
鉄骨へ、
さらに、橋へ。
川田の"独創自立"に根付く
チャレンジ精神
創業100周年を迎えた川田グループの歴史は、鍛冶職人の創業者・川田忠太郎が1922年に富山県福野町に興した「川田鐵工所」から始まった。
この章では、戦後「野鍛冶」として再出発した川田が、日本を代表する橋梁や建築鉄骨を中心とした企業グループになるまでの軌跡をたどる。
戦争で何もかも失った日本で川田は、ツルハシやカマ、ナタ等の暮らしの鉄小道具を作る「野鍛冶」として再出発をきった。
このころ川田は鉄を打つ技術を生かし、
鉄小道具の他にも鉄道用車両の板バネの修繕や製造、
機械部品まで手掛けるようになる。
当時、戦火を逃れ東京や大阪から疎開してきた腕の立つ職人が
富山に集まっていたことも川田の成長を後押しした。
鉄道用車両の板バネや
機械部品・鉄道用車両の製造で
着実に技術力を上げてきた川田は
創業者の息子・忠雄を中心に
遂に大型の建築物を支える鉄骨を担うまでに成長。
金沢機関車庫の案件以来、川田は体育館や消防署等の大型公共施設や
トンネルの内壁工事を支えるセントル等、
人の命にも係わる重大なプロジェクトに関わるようになっていく。
もはや鉄を打つだけにはとどまらない
事業展開を見せる川田は、
さらなるスケールアップへの意を胸に社名を変更。
忠雄は、やがて来るモータリゼーション時代を予見し「橋梁」にも参入。
「町の鍛冶屋が橋をつくる」という一見無謀にも思える挑戦であったが、
「できることは何でもやる」精神で着実に実績を積んでいった。
公共インフラの鉄骨製作・施工で鍛えてきた技術力が
とうとう陸地を繋ぐ「橋」へと繋がる。
川田工業は、大型の吊橋「大渡橋」と同時期に
大型上路アーチ橋「猪谷橋」も請け負うことになった。
忠雄は、それまで曖昧だった日本の吊橋の架設技術を
進歩させるべく、「鋼製吊橋におけるプレストレス工法」を提唱。
あらかじめ応力(ストレス)かけた鋼材を使用し、
吊橋の施工精度を飛躍的に上げる工法を導入した。
「橋梁の川田」としての原点
雪深く厳しい環境の中、
大渡橋は3年間の工期で引き渡しを完了。
製作から架設までを担ったことが、
「橋梁の川田」の幕開け
となった。
2代目・忠雄のアイデアを
当時、東京外語大の学生だった
後の3代目・忠樹が理論づけた。
この大渡橋での実績が
川田グループの橋梁事業の原点
と言われている。
常に「次」を見据え、歩む道を自ら作ることで成長を遂げてきた川田。
創業以来受け継がれてきた
「過去や常識にとらわれず自分で考え、自分で道を拓く」
この「独創自立」の精神が、今日の川田グループを築いている。