橋からヘリへ、
ヘリからロボへ。
挑戦のタスキを
つないできた川⽥

創業100周年を迎え、⽇本を代表するような建築物を残してきた川⽥。
実は、国家プロジェ クトに参画するほど、ヒューマノイドロボットの開発技術も評価されている。
この章では、40年前に遡って、ロボットの開発、製造、販売に⾄るまでの歴史を辿っていく。

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陸をつなぐ橋の次は
空の「橋」渡しだ︕

1980年代にはすでに⼀⼤鋼橋メーカーになっていた川⽥⼯業。当時の社⻑忠樹はそれにおごることなく、さらなる事業構想を模索していた。そんな時、陸と陸をつなぐ移動手段を空に求め、そのハブとすべく「橋上ヘリポート」を構想する。こうして川⽥⼯業は、ヘリコプターの開発・運航・ 整備・パイロットの育成まで⼀貫して担う「航空事業」への挑戦へと舵を切った。

イラスト
  • ヘリコプターの権威
    東京⼤学名誉教授
    を招聘
  • アメリカの
    ヘリコプター会社
    と提携
  • 国内の優秀な
    航空技術者、
    整備⼠を採⽤

1991HTC開所

1987年に航空事業部を始動、4年後にはヘリコプター開発の拠点となるヘリ・テクノロジーセンター(通称HTC)を開所。アメリカで物理学を学んだ忠裕(のちの5代⽬社⻑)が帰国後、航空事業⽴ち上げをけん引することに。

イラスト:HTC開所

1996⾃社開発の
無⼈ヘリ
試験⾶⾏に成功

忠裕は、後のJAXA主幹研究員や、重機械工業の気鋭のホバークラフト技術者とともにヘリ開発を進め、遂に⾃社製ヘリの試験⾶⾏に成功する。

イラスト:⾃社開発の無⼈ヘリ試験⾶⾏に成功

しかし

バブル崩壊・
法規制等の壁を前に
自社独自の
国産パーソナル
ヘリコプター
開発を
凍結

ようやく次のステップが⾒え始めた⽮先、
バブル崩壊のあおりや、
法規制等の壁にはばまれ
ヘリコプター開発の夢を凍結。

ヘリ開発を凍結しても
技術力で活路を。

独自ヘリ開発で⼒を合わせた社員の技術と働く場所を失わせるわけにはいかないという思いを胸に、忠裕はヘリコプター開発で培った技術を活かせる道なら、すべて進むことを決意。
ドローンの先駆けのような⼩型無⼈航空機、ゲーム連動型の動く椅⼦「ジョイチェアー」など、建設会社という肩書にとらわれず、機械の受託開発を進めていった。

⼆⾜歩⾏ロボットを
作ってみないか︖

当時まだ黎明期であったヒューマノイドロボット開発のパートナーを探していた東京⼤学。建設会社ながら、さまざまな機械を受託開発する変わった会社「川⽥⼯業」に興味を持ち、開発の話を持ち掛ける。

イラスト:⼆⾜歩⾏ロボットを作ってみないか︖

ヘリ開発の技術が
こんな形で実るとは…︕

ヘリコプター開発で培った⾼い「モーションコントロール技術」や「電装を高密度に実装する技術」などが、意外なことにヒト型ロボットの「バランス制御」「機体のコンパクト化」に活き、「ロボットの川⽥」としてのストーリーが始まる。

もっとロボット技術を
社会に役⽴てたい

川⽥の、⼈と協働するヒト型ロボットは、現在までに数回のモデルチェンジを繰り返しながら、全国の組立・検査工程、梱包工程、ラボ作業など、⾃動化が難しい作業で、⼈⼿不⾜の解消と⽣産性の向上に今⽇も⼀役買っている。

"橋をつくる会社が、
ロボットをつくる" 事業の枠にとらわれず挑戦する
川⽥の姿勢が
次世代ロボット開発という
未来を切り拓いた。
さらにヒト型ロボットの
活用の幅を拡げていく。

イラスト

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